今、この本を読んでいます。
1985年、40年近く前の本。

刺さる言葉がいっぱいある。
「刺さる」って言うのは、この青年は痛みを持っていて、ナイフを掴んで自分自身を刺したり、「日本」という「社会」を刺してる。わたしも突き刺される。

「私は、くやしいんだ。
敗戦国の人間に生まれてきてくやしい。生まれてなかった頃の戦争のおかげで、ある部分を規定されてる。複雑になってしまってる。わかりにくくなってる。」

「そして、私の中にも「混血の感性」を植え付けた」

「本当に頭が良かった三島由紀夫と、感性が日本とつながっていた川端康成が絶望したのは当然なんだ。私なんかに言わせると、年寄りの作家達が自決もせずにのうのうと文学批判みたいなのをやってるのが全くわからないんだ。」

村上龍の根本的なテーマ、核は変わらないのかもしれない。その人の根本的テーマはそれぞれで違う。

私がわかってる記憶では、私は14歳から音楽と戦争を追ってる。その時々の経験や段階で見解とかは変わっていくけど、40年経ってもそこをテーマにしてる。

30歳ちょっとの村上龍。すごく繊細でまっすぐなの。よく死ななかったなと思う。芥川龍之介とか三島由紀夫とかは死んじゃうじゃん。

死ななかった理由の一つはキューバと音楽かもしれない。そこで再生するんだよ。キューバンサルサにハマってただけじゃなくて、すごい大切な意味があったんだよ。

それをどう書いたらいいのか。

多分だけど、キューバと「KYOKO」(1995-1996)を境に彼の中の傷の痛みが克服されて、作風やテーマがガラッと変わったんじゃないかなって。

それはさ、それまでの愛用者、消費者からすれば「あれ?」ってなるのかも。

例えば、1980年代に佐野元春がニューヨークに行って、音がガラッと変わった時、多くのファンが離れた。私も聴かなくなった。愛用者や消費者はその商品(人)に対して無責任なことを言う。

今さ、何でか、私、”村上龍研究”みたいになってるでしょ。

彼はもしかしたら、敗戦後の、日本の社会とか心とかそういうのを書いた人で、多くの日本人が見て見ぬふりをしているその時代の葛藤や敗戦による歪みを文学に落として、書き残すことが出来た作家なのかも。

戦争、アメリカ、音楽、キューバ。日本。こうやって、私がやってるのもなんかあるのかもね。とにかく頑張ってる。暖房がもったいないので厚着して、布団かけて本読んでるよ。

何してるかって、敗戦、アメリカ、音楽、キューバ、そういうのを私の言葉と、龍さんの過去の言葉から拾い集めたのと、そんなサイトページを作ってる。英語とスペイン語と日本語で。