8月9日9時45分、プルトニウム爆弾「ファットマン」を乗せたB-29「ボックスカー」が小倉上空に到着しました。「ファットマン」は広島に投下されたウラン爆弾「リトルボーイ」に比べてはるかに強力な全く異なる爆弾でした。
小倉上空の原子爆弾 1945.8.9 朝
「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」チャールズ・W・スウィニー:黒田剛訳(原書房)より
小倉が見えてきた。ジム・ヴァン・ペルトは数分前に。それをすでにレーダー画面で確認していた。午前九時四十五分だった。先刻の報告通り薄もやがかかっていたが、今はさらに雲の断片も入り混じっていた。攻撃始点に到着したとき、目印のいくつか―川、建物、道路や公園までも―がはっきり確認できたので、我々は目標である小倉軍需工場を狙える見込みは高いと考えた。
爆撃航程に入ったとところで、ビーハンが突然声をあげた。「見えません!見えません!煙で目標が隠れています」
前夜の八幡爆撃で発生した火災が今なお手に負えぬ勢いで燃えており、ジョージ・マクォートが天候状況を無線連絡してきた時から風向きが変化したために、大量の煙が小倉の上空に流れ込んでいた。照準点に入っても、ビーハンは「見えません!」を繰り返した。巨大な小倉軍需工場は煙ともやに包み隠されていた。私はインターコムに向かって怒鳴った。「投下中止。繰り返す、投下中止」
私は機体を極度に左へ傾けて南方へ旋回し、攻撃始点への接近を再開した。周囲でいっせいに―我々の左で、前方で、右で、後方で、高射砲が炸裂しはじめた。次の瞬間、尾部銃撃手のパピー・デハートが叫んだ。「高射砲です!角度はずれてますが、高度は完璧です」みんないっせいにそちらを振り向いた。
「了解、パピー!」私は答えた。敵は高射砲を動かして我々の期待に照準を合わせようとしていた。私は、戦闘機のパイロットならまずやらない行動に移ろうとしていた―目標への二度目の接近を試みたのだ。こちらの二度目の爆撃航程とは、相手の対空砲撃に二度目のチャンスを与える事を意味した。
私は敵の高射砲起爆を混乱させるべく、高度を9500メートルに変更した。照準点に近づいた時、パピーが再び割って入ってきた。「敵の高射砲がすぐうしろを狙っていて、どんどん近づいてきます」その声は今やパニック気味だった。
「気にするなパピー、こっちは爆撃航程に入っている」私は冷静に答え、照準点への接近に神経を集中させた。私はビーハンが目標を捉えたというサインを送ってくるのを待った。煙ともやの合間に目標を見つけていてくれと願った。この作戦の好機を、ここでなんとかつかみたかった。「見えません!」ビーハンは再度叫んだ。再び急旋回させながら、私は怒鳴った。「投下中止。繰り返す、投下中止」
レーダー操作士のエド・バックリーが報告してきた。「少佐、日本の零戦が接近中。およそ10機です」。私はさらに300メートル上昇して対空砲撃を振り払い、それから別の角度で接近してみようと試みた。角度を変えれば、雲の穴を見つけるチャンスがあるかもしれない。
ビーハンとヴァン・ベルトがあわてて航程接近データを計算した。高射砲がすぐそばで炸裂するため、機体が反動で跳ね上がった。だが三度目の航程も二回と同様、失敗に終わった。照準点はやはり視界が悪かったのだ。クハレックが、燃料残量が極めて厳しいと報告してきた。第二の目標地長崎に飛び、一回の爆撃航程を行う分しか残っていないという。しかも最も近い米軍基地のある沖縄にさえ、帰還する事は無理だろう。八〇キロほど手前で燃料切れになる見込みだった。
エド・バックリーがインターコムで割り込んできた。「下方に戦闘機、こちらへ向かって上昇してきます」。日本軍の無線電波を傍受しているジェイク・ビーザーが、日本の戦闘機の活動が活発化している事を確認した。零戦以上に、対空砲撃が気がかりだった。蹄鉄投げや手榴弾とおなじで、命中しなくても、近くに居れば爆撃に巻き込まれる危険がある。これ以上ここに留まれば、つぶされるのは時間の問題だった。
射撃手のレイ・ギャラハーが、インターコムに向かってつぶやいた。「早くここからおさらばしようぜ」無線通信士のエイブ・シュピッツァーは「長崎は?長崎は?」と言いつづけていた。「私語はやめろ」と私は厳しく命じた。
私は再び機体を極度に傾けて南方へ旋回させ、第二の目標へ向かった。
小倉陸軍造兵廠があった場所、勝山公園にある長崎市より贈呈された「長崎の鐘」のレプリカ。毎年8月9日に慰霊祭が行われています。
1942年、アメリカ原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)が始まりました。1945年4月、ルーズベルト大統領の死を受け副大統領であったハリー・S・トルーマンがアメリカの大統領に昇格しました。1945年7月16日、人類初の核実験(トリニティ実験)がアメリカのニューメキシコ州で行われました。そして、8月に広島と長崎に原爆は投下されました。
2012年、トルーマン大統領の孫にあたるクリフトン・トルーマン・ダニエル氏が平和式典の為に広島と長崎を訪れました。トルーマン家の血族としては原爆投下後、初めての平和式典への参加でした。