ぼく自身の物語
「KYOKO」の物語は、わたしの物語みたい、って思ってた。そう思うと、作品の中の色んなシーンで涙が出る。
でも、ある朝、起き抜けに、ふっと、龍さんを「KYOKO」に当てはめてみたの。すると、不思議な感じなんだけど、パズルのピースがピタッとはまった。そんな感じがしたの。
その10日後くらいに手に入れた「村上龍全エッセイ 1987-1991」(講談社文庫)の最後の部分、三浦雅士さんという文芸評論家さんとの対談で、「ぼく自身の物語」って書いてあったの。
ストーリーをつくってから気付いたんだけど、ぼく自身の話なんだけどさ、ストリッパーが主人公なの。で、福生の生まれなの。私生児なんだけど、親子三代私生児なの。それでいじめられてたんだけど、ある日、小っちゃい頃に鉄条網をはさんで黒人兵と出会うの。黒人兵が「何で泣いてんの?」とか言ってもわかんないけど、すごく面白い踊りを踊ってたの。で、面白い人だなと思って笑うのね。それがその子にとって初めての笑いだったの。その黒人兵と何回か会って、「お尻を振るんだよ」とかって黒人兵が教えてくれるの。それがなんかとても楽しかったから、ずーっと一緒に遊んだのね。ただ踊るだけだけどさ。そんときに、「ぼくの国ではこうなんだよ」っていうのを聞いて、いろんなイメージがわくわけ。
で、別れるときに「ぼくニューヨークにいるから、大きくなったら訪ねておいでよ」って住所をくれるの。その住所をネックレスに入れて、先生とか親とかいうよりもその住所だけを頼りに彼女は生きていくわけよ。要するに自分の体が感じた喜びを、ファースト・プライオリティで生きていくの。で、ストリッパーになるのね。ポルノ・ショーみたいのをやって生きていくわけ。
主演女優が突然降板して、ストーリーがどんどん変わっていった。
女性の物語で、作品としてストーリーは作られてる。だけど、ストーリーの骨のようなものは、村上龍さんの物語。
「KYOKO」の冒頭
序章モノローグ・キョウコ
鉄条網。
どこまでも続く、わたしの背たけよりも高い鉄条網、それが記憶を被っている。
四歳の時、両親が交通事故で死んだ。
わたしは叔父夫婦に引きとられ、育てられた。米軍基地のある街。鉄条網のすぐ傍を歩いて、幼稚園や学校に通った。
鉄条網の向こう側には、迷彩が施された軍用機や、芝生のある米軍用住宅地や、それに星条旗が見えた。
そして、これが最後の部分。
キューバは大好きだが、きっとわたしのゴールじゃない。
ゴールにたどり着いたと認めた瞬間に、未来は消えてしまう。
途上にいて、しかもそれを楽しんでいる時、わたしは未来を手にすることができる。
死ぬことだって、ゴールじゃないし(それは事故みたいなもの)、基本的なものは、鉄条網の傍を歩いていた幼い頃から何も変わっていない。
でも、今、わたしの心の中にずっとあった「鉄条網」が消滅している。
つまり、今、わたしには、何か自分の大切なものから決定的に遠く隔てられている、という感覚がない。
それは、ホセを見つけ、ホセを運ぶ旅の中で消えた。
ホセだけではなく、長い旅の途中で出会ったいろいろな人達と、話したり笑い合ったりしているうちに消えた。
スペイン語はまったくできないし、英語も得意ではないので、彼らと何かをわかり合ったわけじゃない。
単に出会って、通り過ぎただけだ。わたしは目的を持って、彼らの間を通過した。
わたしはこれからもずっと、どこかに行く途上にいるだろう。
途上にいるのは、落ち着かなくて不安定だが、たぶん何とかなると思う。
ホセが教えてくれたダンスが、まるで生きもののように、わたしのからだにあるからだ。
鉄条網がなくなるの。
「「KYOKO」あとがき」(集英社)より
この小説を書いている間、二十年前の気分をずっと思い出していた。『限りなく透明に近いブルー』というデビュー作を書いたのがちょうど二十年前の秋で、久しく忘れていたその時の気分を思い出したのだ。
この小説には、セックスもSMも麻薬も戦争もない。デビュー作以来、自意識を吹き飛ばす手段としてそれらをモチーフに使ってきたが、この作品では必要がなかった。
「すべての男は消耗品である」より
映画の編集作業を終えた頃に、小説『キョウコ』を書き下ろした。
書いていて、私はデビュー作を書いていた時のことをずっと思い出していた。
まるで、生まれて初めて小説を書くように、『キョウコ』を書いたのである。
それは「新鮮な気持ちで」というのとは違う。
自分が、『限りなく透明に近いブルー』を書いた時の「精神」に戻ってきているのを感じた。
そのためかどうかはわからないが、『キョウコ』の小説のラスト近くに、「再生」という言葉がひんぱんに出てくる。
エイズで死んでいくホセという登場人物の台詞として出てくるのだが、書いている時に、私自身が小説家として再生しているような気分になった。
再生というのは、死地からカムバックしてくることだけではない。
この場合むしろ進化といった方がいいのかも知れない。
つまり、自分の情報量の劇的な、爆発的な増加である。
私は「情報」と言っているが、それを「世界」という人もいる。←「情報」=「世界」というふうに置き換えて読むと解りやすい。
私は常に情報に飢えていたし、今もそうだ。
私がいうところの情報は、『ニューズ・ウィーク』や CNN ニュースやインターネットなんかにはない。
教養や、報道ではない。
基本的には、肉体的な経験であり、サバイバルのための実践的な哲学素材のようなものだ。
「・・・・・・・アナルにピンクローターを挿入し、スイッチを入れて震動させ、ヴァギナでセックスすると、アナルの震動がペニスに伝わってきて…….」
みたいなことを雑誌で読んで、なるほど、と自足しているのがこの国の現状だ。
小説家の処女作には、彼が第一作を書くまでの情報がすべてつまっている。
その後情報は増え続け、技術も向上するが、処女作を越えることはない、とよく言われる。
『キョウコ』が『限りなく透明に近いブルー』を作品として越えたなんて思っているわけではない。
作品として越えたということなら、『コインロッカー・ベイビーズ』で充分だ。
『キョウコ』は『..ブルー」の精神の続編として、デビュー作にあった抒情性を獲得したのである。
デビュー作に、戦略的にではなく戻って来たということは、20年間にインプットした情報が、デビュー作を書く際の情報の蓄積を上回った、ということになる。
それは小説家としてのキャパシティの拡大だと思うが、映画を撮り続けていなかったらあり得なかったことだ。
「村上龍」の世界が、広がった。それは、「アメリカ」との関係において、心の中にずっとあった鉄条網とか鎖から解放されたんじゃないかと思うの。
だから、たぶん、龍さんの作風がここから変わった。「限りなく透明に近いブルー」から続いてた「青春」の葛藤のようなものが解けて、終わって、次のフェイズに行った。
KYOKOを読み解くため読んでみて欲しい書籍
- KYOKO(集英社・幻冬舎・村上龍電子本製作所)
- KYOKOの軌跡-神が試した映画-(幻冬舎)
- 村上龍全エッセイ 1987-1991(講談社文庫)
- あなたがいなくなった後の東京物語(角川書店)
- アメリカン★ドリーム(講談社文庫)
- すべての男は消耗品である(村上龍電子本製作所・幻冬舎など)
- シボネイ-遥かなるキューバ-(主婦の友社)
- 限りなく透明に近いブルー(講談社・村上龍電子本製作所)