数日前にキューバのルイシートから連絡があった。龍さんがキューバで録音した時のサウンドエンジニアがルイシートの友人で彼から話を聞きたいと私が言ったので、その事だった。

「限りなく透明に近いブルー」をもう一度ちゃんと読まないといけないと思った。20代、まだニューヨークに住んでいた頃に一度読んだと思う。

私たちともう少し上の世代にとっては「村上龍」は「流行作家」だった。あまりにも有名な作品だし、「限りなく透明に近いブルー」というタイトルが美しいとも感じたので読んだのだと思う。

全く意味が解らなかった。
嫌悪感が残った。

半年ほど前に「限りなく透明に近いブルー」を電子書籍で買った。
なかなか読み進まなかった。

ドラッグ、セックス、嘔吐、暴力。そういった描写はやはりきつかったし、もともと文字を読んで理解する事が得意じゃなかった私にとっては、「文学」は文章を理解する事で頭が疲れてしまって、何度も寝落ちしてしまう。

30年も経ったのであの頃に感じ取れなかった事をいくつか感じることは出来たと思う。
痛くて、切なかった。
ドラッグ、セックス、嘔吐、暴力の描写が多いので、なかなか進まなかった。

この数か月の間「村上龍」と「キューバ」の事を探して読んだ。特に龍さんがキューバに関り、「KYOKO」という映画を撮り、「KYOKO」を書きおろした頃のエッセイ(「全ての男は消耗品である」)は龍さんとキューバの関りというか、龍さんがキューバと関わる事によって龍さんの中で起きた事を多少なりとも理解する鍵があったと思う。

「KYOKO」の初版の帯には「希望と再生の物語」と書いてあった。
「希望」は理解できる気がしたが「再生」の意味が解らなかった。

「KYOKO」を書きおろした頃のエッセイに、

【映画の編集作業を終えた頃に、小説『キョウコ』を書き下ろした。 書いていて、私はデビュー作を書いていた時のことをずっと思い出していた。 まるで、生まれて初めて小説を書くように、『キョウコ』を書いたのである。 それは「新鮮な気持ちで」というのとは違う。 自分が、『限りなく透明に近いブルー』を書いた時の「精神」に戻ってきているのを感じた。 そのためかどうかはわからないが、『キョウコ』の小説のラスト近くに、「再生」という言葉がひんぱんに出てくる。】
(村上龍.すべての男は消耗品である。VOL.1~VOL.13:1984年8月~2013年9月連載30周年記念・完全版(p.799).MurakamiRyuDenshibonSeisakusho.Kindle版.)

キューバでの暮らしで私は自分の中で「再構築」が出来た。
アメリカに憧れて、アメリカを追っていた時には気付かなかったけど、音楽を通じて太平洋戦争の歴史やアメリカの退役軍人たちと関わっていくうちに、「私の中の日本人」がとても深く傷ついている事に気づいた。

日本は戦争で負けた。
日本はアメリカ合衆国に教育と衛生と経済を「与えてもらえた」けど、自尊心や誇りを失った。

原爆を二つも落とされたのに、私たちはその事に怒る事も出来ず、「反省」をしていた。

「限りなく透明に近いブルー」は村上龍さんが「基地の街」で生まれ育ち、子供の目から見てきたアメリカ人と日本人の間にある戦勝者と敗戦者の世界が根底にあったとおもう。

【基地の街では、彼らは絶対者だった。
誰に権力があるのか、誰が決定権を持っているのか、子供と犬はそれを見抜く。
それを見抜けないと弱者は生きていけないからだ。】

村上龍.すべての男は消耗品である。VOL.1~VOL.13:1984年8月~2013年9月連載30周年記念・完全版(p.754).MurakamiRyuDenshibonSeisakusho.Kindle版.」

どうして作家「村上龍」がキューバにコミットして行ったのか。
それと「限りなく透明に近いブルー」は≪「敗戦」「基地の街」「アメリカ」≫がとても重要なファクターになっていると思う。

キューバ人の友人二人が「村上龍」の作品を読んでみたいと言ってくれた一人はルイシートで、もう一人はLosVanVanのプロモーションをやっているオランダに住むイベリスというキューバ人だった。とても嬉しかった。

「限りなく透明に近いブルー」は難解な作品だと思う。だけど、機会があれば読んでみて欲しい。

エッセイの中で龍さんはキューバに行きはじめたころに「日本人が失ったものを彼の地は持っている。」と書いた。

私もそう思う。
それをキューバは決して失って欲しくないと、願う。