門司港からの出征

中国大陸に近い門司港は戦前から石炭の積み出し港として栄え、国内の商社が集まる貿易港だったが、戦時中は戦線への人と物資の供給拠点となった。太平洋戦争期間中の1942年1月―45年8月、門司から761隻の輸送船が出港した。ほかに横浜、神戸などの港もあったが、国内の出征船の約45%を門司港が占めた。当時、門司港付近は出征を待つ兵士が旅館に入りきれず民家にも宿泊し、街は兵士や見送りの家族であふれた。火野葦平の「土と兵隊」などの戦記にも登場する。(西日本新聞2011年8月12日)

: 門司港からの南方方面出征 日本陸軍地域別配置兵力(門司港出征兵士記念碑建設委員会HPより)

南方総軍隷下

地域

派遣兵力

戦死者

生還者

戦死率

フィリピン

466,000

368,700

97,300

79

ボルネオ

29,000

10,400

18,600

35

セレベス

19,000

1,300

17,700

7

東ニューギニア

140,200

110,000

30,200

73

西ニューギニア

53,700

1,800

51,900

3

スンダ

169,100

51,600

17,500

75

ジャワ

42,600

 2,200

40,400

52

スマトラ

61,500

2,000

59,500

3

佛印

96,500

6,100

90,400

6

タイ

110,800

4,800

106,000

4

ビルマ

230,800

160,400

70,400

69

マレー

91,700

6,900

84,800

8

アンダマンニコバル

11,400

700

10,700

6

中部太平洋

139,600

91,000

48,600

65

小計

1,561,900

817,900

744,000

52

台湾

155,300

27,200

128,100

18

沖縄

108,500

67,600

40,900

62

小計

263,800

94,800

169,000

36

総計

1,825,700

912,700

913,000

50

       


門司市街空襲 1945年6月29日

門司と下関の市街地域は、北九州と本州南部に位置して工業上の収穫を左右する輸送上の関門である。それらは日本の最高に燃え易い地域の中でも、最も集中していて燃え易い目標になっている。これらの中心を爆破すれば、攻撃地域から半径10マイル【16km】以内の工場群全体が内蔵している経済的な力は麻痺するであろう。

下関と門司は、全ての鉄道輸送と、本州と九州間および島々とアジア大陸間の船舶輸送の大きな部分に関して、共に一つの隘路を形成している。本州の最終製品工場で消費される石炭供給の60%は、関門トンネル施設群(大里の大鉄道操車場、目標1674を含む)によって門司を通過し、下関とその操車場に送られるものと見積もられる。南に向けた輸送には、最終製品と軍需品と軍隊が含まれる。

この二つの都市と、輸送を処理する彼らの複雑な体系を破壊すれば、日本経済と軍需生産は著しく崩壊するであろう。無視された連絡船施設では、何週間もかけなければ別として、過重に負担をしている鉄道施設の代りはできない。貨物輸送の上で(関門トンネルとその操車場を使って)10時間を短縮するには犠牲を払うことになろう。結局、成功した鉄道はふ頭や水上輸送施設のような代わりのものを排除するであろう。

同様に重要な効果には次のようなものがある:(1)挑戦と満州にいる軍隊のための支給が危険に陥るであろう。(2)彦島にある隣接した工業地域が妨げられるであろう。(3)若松港のような近傍の積み換え港がひどい悪影響を受けるであろう。


門司港と連合軍捕虜(POW研究会 笹本妙子)

第二次世界大戦中、日本軍はアジア太平洋各地でおよそ13万人の連合軍兵士(米・英・蘭・豪・加・印・NZなど)を捕虜としました。うち3万数千人が国内の労働力不足を補うために船で日本に送り込まれました。日本に着いた捕虜輸送船は大小合わせて70隻近く、その大半が門司港に入港しています。捕虜たちは門司港駅あるいは対岸の下関駅から汽車で日本各地に送られ、炭鉱や鉱山、造船所、工場などで使役されました。

終戦直後の門司港(米公文書館蔵)

■“地獄船”で門司港に到着した捕虜たち

 捕虜を乗せた船は別名“Hell ship(地獄船)”と呼ばれました。あまりにも悲惨な航海だったからです。捕虜たちは暗い船底にすし詰めにされ、食べ物も水もろくに与えられず、トイレもない不衛生な環境のため赤痢などの伝染病が蔓延し、大勢の人がバタバタと死んでいきました。さらに、連合軍の魚雷攻撃や爆撃によって船が沈没し、おびただしい犠牲者が出ました。航海中に死亡した捕虜は1万人以上と言われています。

かろうじて門司にたどり着いた捕虜たちも、心身ともに衰弱のきわみにあり、上陸直前に船内で息絶えた人も大勢いました。その様子を目撃した人がこんな証言をしています。

岸壁には倉庫からはみ出した棺が二段三段に重ねられてずらりと並んでいて、中にはきちんと蓋が閉まらないのか、棺から手が出ていたりしていました。異様な光景でした。上陸した捕虜たちも、真っ黄色な顔をしてフラフラでやっと立ち上がってきました。今にも死にそうな捕虜たちが縦隊に並ばせられて、日本の兵隊に引率されてどこかへ連れて行かれました。

 門司入港直後に亡くなった人たちは浜辺や円山町の市営火葬場で火葬されました。何とか歩ける人たちは日本各地の収容所に送られていきましたが、重症患者は小倉陸軍病院や下関検疫所、門司収容所などに収容されました。

門司収容所

 この収容所は、昭和171127日に、門司市楠町(現・門司区老松町)のYMCAの建物を利用して開設されました。時期によって名称が異なりますが、最後の正式名称は「福岡俘虜収容所第4分所」でした。

終戦直後の門司収容所右側の建物(米公文書館蔵)

ここに“定住”していた捕虜はイギリス人、アメリカ人、オランダ人など約300人で、彼らは主に門司港に停泊する船や外浜駅周辺の倉庫などで荷役として働かされました。門司で約2年半を過ごしたあるイギリス人元捕虜は、過酷な労働や飢え、監視員の暴力に苦しむ日々だったが、中には親切な日本人もいたと語っています。

彼らの他、門司港に入港した捕虜輸送船からの重症患者も臨時に収容し、ここから多数の死者が出ています。終戦までにこの収容所で死亡した人は計191人ですが、上陸直前に輸送船の中で死亡した93人を加えれば、計284人となります(別資料では303人)。彼らの遺骨は最初収容所に保管され、のちに本願寺別院に移されましたが、この寺が焼失したため、昭和205月に庄司町の大雄寺の共同墓地に埋葬されました。終戦後、これらの遺骨は進駐軍によって回収され、横浜の英連邦戦死者墓地の納骨堂に合葬されました。

終戦直後の焼け野原となった門司の町。後の山の麓に大雄寺、中腹に共同墓地(米公文書館蔵)

下関検疫所

  昭和1711月末頃、一度に4隻もの“地獄船”が到着したとき、赤痢などの伝染病患者約60人が、門司の対岸、下関市彦島江の浦町にあった下関検疫所の隔離病棟に収容されました。門司収容所の分室として位置づけられていましたが、いつ頃まで存続したのか不明です。地元の人の話では、小康状態になった捕虜は第2収容所(彦島江の浦町2丁目付近)に移されたとのことですが、これも詳細は不明です。

下関検疫所跡(2006年時点)