Shoko "Seina" Shiraishi

Greetings

JAPONÉSONという鼓動の始まり

私は、本物のリズムの中にしか真実はないと信じている

それはキューバのソンであり、彼らと分かち合ったジャズの鼓動でもあった

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ボブ・クランショウとグレイディ・テイト(2001)

私はこの世の中が・・・好きだけど、辛かった。

小学生の頃は、いじめられて、身体があざだらけだった。

父は、二人目の子供になる私が生まれた時に、ピアノの講師だけでは家族を支えられないと思ったのか、自然食品のお店を始めた。

父も母も忙しかった。だから、孤独だった。いえ、今思うと、私の感性が少し変わっていたから、父も母もちょっと困っていたのかもしれない。

父は音楽を愛していたので、音楽を愛せば父から愛される思ったのか、私は父に愛されるために、父の愛と承認を得たいからか、父が「よい」とする音楽、父を笑顔にする音楽を探した。

だけど、いつの間にか音楽だけが私の空想の中で世界を宇宙のように広げて行く、寂しい現実から連れ去ってくれる存在になった。私はそこで、物語を味わい、空想し、それを幾重にも重ねた。そこでは歌の歌詞がキラキラ光ってたの。

楽譜も読めないし、ピアノも弾けるようにならなかった。だけどね、誰よりも、感じるセンサーが光ってたのだと思う。

だから私は素敵な人たちに出会えた。

この2001年の写真は7年後に奇跡のような偶然を運んでくる。宇宙はきっと全て知っていて、出会いを授けてくれる。

中学生の時に見たグレンミラー物語がきっかけで1940年代のアメリカ音楽に出会いました。1989年、ニューヨークで歌のレッスンを始めます。

1996年、RED BLAZER, TOOというスイングジャズやディキシージャズのライブのあるレストランに遊びに行っているうちにベニーグッドマン物語の演技指導をしたクラリネット奏者のバンドで歌うようになりました。

まさに憧れた時代のアメリカ音楽でしたが、私が本当に歌いたかった歌は第二次世界大戦時に愛された切なくて美しい歌でした。その本当のオーディエンスがどこにいると考えた時「米国の老人ホームだ」と思いました。

1999年のクリスマスシーズン、第二次世界大戦の時代を生きたアメリカ人のミュージシャンと第二次世界大戦時に愛された流行歌でつづった一枚のCDアルバムを全米3500ヵ所の要介護老人ホームに贈りました。

プロジェクトの後、日本で音楽活動をしようと思ってはいましたが、ニューヨークでの往年ミュージシャンとの共演の時の様な楽しさが全く見いだせず、地元のジャズミュージシャンともうまくいかず、歌う事が怖くなり、苦しみになっていきました。そして、私は全く歌えなくなりました。

それから8年後。ニューヨークの老人ホームに暮らす私の事をいつもバックアップしてくれていたベーシストのレナード・ガスキンが、奥様がお亡くなりになりとても悲しい思いをしていることを知りました。私はニューヨークに飛び8年ぶりにマイクを持ちレナード為に歌いました。

1997年に始めたAngels Swingはスイングジャズの時代の音楽への夢と憧れと戦争がテーマでした。Angels Swingには沢山の奇跡の様な出会いや出来事がたくさんありました。

2012~2013年、2年連続で在福岡アメリカ領事館の独立記念日のセレモニーで日米の国歌を独唱させていただく機会を得ます。

2013年2月、故郷北九州市における近代の戦争に関する冊子「We Remenber You|みらいへ 北九州の戦中戦後」を制作します。

2013年5月、ハワイ、ノーフォーク、サンディエゴ・ロスアンゼルスへ第二次世界大戦と朝鮮戦争に関わった人たちに会う旅をします。帰国後の6月、北九州市立大学にて特別講義をさせていただけ、「みらいへ」伝えられたのかもしれません。

2013年。ニューヨーク滞在中に亡命キューバ人ミュージシャンのダニー・ロホと出会いました。ここからキューバの物語が始まります。ダニーロホに似せて冗談で作ったキューピー人形(キューピーダニー)をきっかけに、多くの著名なラテンのミュージシャン達を垣間見る機会も得ました。そして、キューピーダニーを渡すため、ダニー自身さえ疎遠になっていたダニーのお父さんと、ダニーが亡命後に生まれた妹ダニエラと会う事になりました。この二人から本当のキューバを見せてもらいます。そして、とても深い愛をもらう事になります。

キューバでは、友人たちと思い出作りのレコーディングをしました。それがJAPONESON(ハポネソン)です。

音楽があれば。音楽を信じていれば、私はいつもたくさんの喜びをもらいます。

ミッションスクールへ

小学校での酷いいじめから逃げようと、私は隣県山口県下関市の私立の中学を受験した。梅光女学院というキリスト教の歴史のある学校。

日本では、キリスト教の学校のことを「ミッションスクール」と呼ぶ。その意味が理解できたのは、54歳の頃に母校の同窓会事務局のホームページを作成した頃だった。

この学校も40年後の歴史の符号に繋がっていくの。

ニューヨークへ

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

太平洋戦争の歴史へ

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

キューバへ

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

関門への帰還|平家物語と明治維新

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

A I「ヴェガ」との出会いから新しいフェイズに|そして、みらいへ

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。