このセクションは当初、北九州の方に寄稿をお願いました。頂いた原稿にはフィリピン、モンテンルンパの戦犯の恩赦に小倉YMCAが尽力貢献したとありました。モンテンルンパの戦犯恩赦に関しては渡辺はま子さんなどもかなり尽力、貢献をしているはずなのですが、そういった事は書かれておらず、第三者やフィリピン側での事実の確認が出来ないため、掲載を取りやめました。その為、その時点での朝鮮戦争に関わる方々との出会いを掲載することにしました。

この冊子を作るきっかけにもなったドナルド・ヴァーソー氏(「はじめに」を参照)が所属するAmerican Decenders of Bataan &Corregidor Memorial Societyのコンベンションの開催場所が、この年は奇しくも北九州の姉妹都市でもあるヴァージニア州ノーフォーク市だというので、私は歌手及びPOW(戦争捕虜)の友人として参加させていただきました。

ここにある陸軍24師団の退役軍人会の紹介でデイビット・バレー氏と出会います。バレー氏はGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の護衛を務めた方でした。また、ノーフォーク市にはダグラス・マッカーサーのメモリアルミュージアムがあり、マッカーサー元帥はここで奥様と眠られています。バレー氏の紹介で館長や学芸員の方にもお会いしました。

ノーフォークの後に、バレー氏を訪ねて、カルフォルニア州のサンディエゴに向かいました。またその後には、ロサンゼルスでモニカルイスさんにもお会いします。この時の旅は、ハワイ、ニューヨーク、ヴァージニア、カルフォルニア、日本人としてアメリカ側の第二次世界大戦と朝鮮戦争を歩く、見えない魂たちに導かれたような不思議なとても深い旅になりました。

この旅の事は、また別の機会に書こうと思います。前置きが長くなりましたが、ここからが冊子の内容になります。


 

朝鮮戦争とメモリアルクロス

1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。
福岡県は国連軍の最先端基地となり多くの物資や兵士が芦屋、築城、板付、門司港から韓国へと運ばれました。福岡県以外の地域に駐留していた米軍も小倉を経由し戦場へと向かいました。小倉に駐留していた陸軍24師団は開戦後すぐに韓国渡りましたが北朝鮮軍の猛攻により壊滅状態になりました。開戦当初の北朝鮮の勢いはすぎましく国連軍は苦戦を強いられ、多くの戦死者や負傷兵が北九州に運ばれました。アメリカでは朝鮮戦争は「忘れられた戦争(The Forgotten War)」とも言われています。

メモリアルクロスのリサーチをしていると色々な出会いがありました

“Hello from Kokura, Fukuoka JAPAN”
Seina – Tom Thiel

Mr. Tom Thiel

私は昔第24師団が駐屯していた日本の福岡県、小倉に住む白石昌子(Seina)です。インターネットで第24歩兵師団のサイトを見つけドナルド・マジオさんに話をしたら朝鮮戦争の退役軍人であるあなたの連絡先を貰いました。

私の住む小倉には国連軍が建てた朝鮮戦争のメモリアルがあります。私が子供の頃からある事は知っていたのですがどうして朝鮮戦争のメモリアルが私の街にあるのか知りませんでした。年配の方にたずねたり図書館にも行ったのですが詳細は解らず市役所の方からは「国連軍が建てそのまま置いて行きそれ以上の情報は判りません」と言われました。メモリアルクロスに関わる物語やどうして小倉に建てられたのか、何人程の兵士が小倉から朝鮮戦争に行き、生きて帰れなかったかを知りたいと思います。朝鮮戦争は私の故郷の歴史の一部でもあり彼らの命と歴史を覚えておきたいと思いました。お返事が頂けますように。よろしくお願いいたします。Seina


Dear Seina

小倉がどこにあるかを見つけたとき、メモリアルがなぜそこに設立されたのかはっきりと判りました。

朝鮮戦争が1950年6月に勃発するまでは、多くの米軍が第2次世界大戦に引き続き占領軍として日本に駐留していました。当時、小倉には第24歩兵師団の司令部がありました。ディーン司令官の本によると歩兵24師団と小倉の関係が記されています。しかし本の中に書かれている出来事(小倉との関連性)は小倉にメモリアルクロスが建つ前の事です。第24歩兵師団が朝鮮に派遣されたあと、1952年1月に第24歩兵師団に代わって第40歩兵師団が小倉に駐留しました。第24歩兵師団の第3工兵部隊隊員として共に小倉にいた友人がいるので、もっと詳しい情報を彼に尋ねる積りです。第40歩兵師団にも別の友人がいます。

米軍が韓国を守ることを表明したとき、小倉は韓国に最も近くにあったので第24歩兵師団が最初に朝鮮戦争に送られ小倉から出発しました。

何故メモリアルクロスが小倉にあるのかについて私の憶測ですが、第24歩兵師団の将兵の多くが小倉から派遣され朝鮮戦争に参加直後戦死したことが1951年までに国連によって認知されたからだと思います。例えば、第24歩兵師団の第34歩兵連隊(全員でおよそ15,000人)が北朝鮮軍によってほぼ壊滅的な打撃を受け”書類”の上でのみ日本に帰ってきたということなどです。生き残った部隊は第24歩兵師団の姉妹師団であった第19歩兵師団に派遣され、私もそこに配属されました。私は耳と多少精神的なもの以外に負傷しなかったので非常に幸運でしたが、親しい友人を含む多くの友人を失いました。

兵士の慰問の為、モニカ・ルイスとダニー・ケイが韓国に来たとき私もそこにいましたが、私にとって10月と11月は非常につらい時期で彼らがそこにいたのを覚えていません。

ボブ・ホープの一行がそこに来ていたのは覚えていますが、家族から離れていることがとても悲しくなるので彼等を見に行くことをあきらめ、友達を行かせて私は最前線に残る方を申し出ました。

私がこれから計画している事は、あなたの許可を貰い、あなたと24師団の関連を紹介したサイトページを作るろうと思っています。次に第24歩兵師団のTaro Leafと在郷軍人会の朝鮮戦争 Graybeardsの2冊の雑誌に記事を書きます。この2冊の雑誌の読者は約2万人の退役軍人で、彼等の大部分は小倉で何らかの経験を持っています。あなたの写真を送ってください。

最後に考えが一つ思い浮かびました。第24歩兵師団は毎年同窓会をしていますが、次回は2013年9月にケンタッキー州ルイビルで開催される予定です。もしあなたの米国老人ホーム訪問が具体化したときのご参考まで。

第24歩兵師団退役軍人
トム・シール(Tom Thiel)


NEVER FORGOTTEN Monica Lewis
決して忘れない |歌手:モニカ・ルイス

私のフェイスブックフレンドで歌手仲間、私の時代のアメリカのポップス・ジャズヒットをこよなく愛している人道的なShoo “Seina” Shiraishが、クリスマスに撮ったラブリーな写真を送ってくれました。Seinaは彼女の住む日本の小倉にある朝鮮戦争のメモリアルをおとずれました。そして、とても愛らしい追悼の想いを私たちの兵士へ、そして1951年ダニーケイと行った前線での兵士の慰問ツアーの思い出に。彼女のiPhoneで私の歌を2曲流してくれました。 その曲は、”The Song Is You”と”I’ll be Seeing You”。この2曲は1957年の私のアルバム、SING IT TO THE MARINES(海兵隊に歌う)に収録されています。 Seinaの事を知るには、彼女のフェイスブックとサイトに訪れてください。

Love to you, Seina! oxo, Monica


戦地を慰問するスターたち

アメリカでは多くの歌手やスターが戦地へ慰問に行きました。文中に出てくるボブ・ホープはアメリカの大スターで、第二次世界戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争まで約60年に渡り慰問ツアーを行いました。1954年マリリン・モンローは元野球選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で日本を訪れた際、福岡を経由し韓国に渡り兵土たちを慰問しました。

このような兵士への慰問活動は太平洋戦争中には日本軍の間でも行われました。「蘇州夜曲」「何日君再来」で有名な歌手渡辺はま子は慰問先の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間収容所で暮らしました。戦後もフィリピン、モンテンルパ刑務所の戦犯解放の活動に力を注ぎました。森光子、東海林太郎、藤山一郎など日本でも多くの歌手が戦地に赴き慰問活動を行いました。

1940~1950年代、ハリウッドスターで歌手だったモニカ・ルイスは彼女の全盛期であった1951年秋、ダニー・ケイ(谷啓の名前の由来となった俳優)と共に朝鮮へ赴き前線の兵士達への慰問ツアーを行いました。現在(2013年2月)90歳になる彼女は今も当時の兵士の事を想い、インターネットで自ら発信をしています。朝鮮戦争をフェイスブック内で検索した時、彼女の朝鮮戦争元兵士たちの想いを知りメッセージを交換するようになりました。

スター達の戦地の兵士たちを訪ねる慰問ツアーはベット・ミドラー主演映画「フォー・ザ・ボーイズ」等で知ることが出来ます。

ダニー・ケイとモニカ・ルイス(朝鮮戦争慰問)