KYOKO|希望と再生の物語

1995年

「新しい他者、キューバ」

「KYOKOの軌跡―神が試した映画(幻冬舎)」より

「それだけキューバという存在が大きかったのは僕と「アメリカ」の問題にも関係があるからでね。僕にとって「アメリカ」との関係はいろんな作品に反映するくらい大きなものだった。「アメリカ」っていうのは、批評とか的確な判断を拒否するくらい、ずっと影響してきたんです。本当は戦後の日本人はみんなそうだったと思うんだけど、僕は佐世保という米軍基地の街の生まれて、家の隣には米軍しょうのオンリーが住んでいるという環境に育ったから、それがよりわかりやすい立場にいたということだと思う。

日本の首相とアメリカの大統領との間にちゃんとした対話もないまま交渉がおこなわれていることがシンボリックに日米関係を示していると思うんだけど、言ってみれば価値観の奴隷状態でしょ。そうなってしまった一番大きい理由は本土決戦をしなかったせいだと思う。本土決戦はしなかったほうがよかったに決まってる。したら大変なことになっていたから。だけど、しなかったことによって、戦っていた相手があいまいになっちゃった。それどころか今度は全面的にアメリカの価値観、生活パターンをお手本にした。敵だったはずなのに会ってみたらそんなに悪い人たちじゃなかった、みたいなね。…・・・・節操がないというか、いつのまにかアメリカはカッコいいもんだ、ということになっちゃった。

そういう価値観の奴隷状態の中では、アメリカを馬鹿にして拒否するか、アメリカに憧れて、向こうのDJみたいに喋るとか、二つの方法しかない。長い間そう思っていた。ナショナリストと非国民の波うち際を歩く、なんて見栄を張っていたこともあるけど、実際には結局、何もできなかった。

それがキューバとその音楽、文化を知ったときに、すごくアメリカから自由になるような感じがした。だから、最初のうちはオーパーヒートになるくらいキューバを賛美して「今まで自分は騙されていた、ジャズのようなあんな暗い音楽に…..」。いや、今、冷静になってみるとジャズにだっていいところ、いいものがあるんだよね。ただ、あの頃はジャズのことを鬼倒しまくっていた。クラシックに対抗するにはジャズ、ロックしかないって思っていたけど、キューバという国は別の手段を持っていた、ということなんだけど。」


「他者としてのアメリカ」

「KYOKOの軌跡―神が試した映画(幻冬舎)」より

不変でないプライド

私は前大戦が終わって七年目に、基地の街に生まれた。アメリカで映画「KYOKO」の撮影・編集作業を行い、西ハリウッドのちいさな古いホテルにいて、日本の新聞のための原稿を書いている今、自分が米軍基地のある街で生まれたことを強く意識する。日本国にとって、敗戦とその後の米軍による占領と安保条約による基地の存続がどういう意味を持っていたのか、私にとってそういう問いはあまり重要ではない。米軍基地のある街では、日本的共同体のコントロールが及ばないことがあって、最初から何かが暴露されていた。外国の軍隊が駐留し、国土の一部を占有するといった事態は、考えてみれば有史以来初めてのことだった。私が生まれ育った家の隣は米軍将校のオンリー(大部分は契約売春婦。中にはGIと結婚した女性もいる)がすんでいた。私は、強者である外国人に自分の国の女が「飼われる」のを子供の頃に目撃した初めての世代なのだ。だから私には日本民族としてのプライドが希薄なのだ、というのではない。強者としてのアメリカに身も心もなびいたわけでもない。

私は、民族のプライドというものは、永久不変にどこかにドーンとそびえているものではなく、いとも簡単にそれを奪われたり、逆に奪ったりできるものだ、と知っただけだ。

20年かかって獲得

映画でも、小説でも、私がつくり上げたヒロインのキョウコは、ダンスという個人的な肉体性によって日本的共同体から自由な女性であり、アメリカ東海岸を一人で旅することによって、まわりのアメリカン・マイノリティの人々に日本人女性の魅力的な特質を印象づけていく。その物語の構造は、私がデビュー後二十年を経てやっと獲得し得たものである。アメリカとの関係において、これまで私は非常に日本的だった。ナショナリストと非国民の間の狭い波打ち際を歩く、などと見栄を張っていたが、実際には何もできなかった。アメリカの価値観の奴隷となるか、アメリカ的なものをヒステリックに排斥するか、両極端な二つの姿勢しかなかった。その二つの姿勢は、イエローキャブと呼ばれる女性達や黒人ラッパーのファッションの少年達から、「ノーと言える日本」などという本が出たことも含めて歴代の政府まですべてに共通のものだ。

日本野球のレベルの高さを示したのが、日本野球界から飛び出した野茂だという、単純だが、普段はわからない真実を忘れてはいけない。居心地のいい日本的共同体の中にとどまっている限り、日本民族のプライドを示すことはできない。アメリカでの映画制作では、主演女優と私以外はほとんどすべてアメリカ人だったために、私のあらゆるものが試されることになった。脚本のリアリティ、映画技術、体力、人間性、どんなスマイルをするかまで、全部試された。孤独だったが、こんな楽しい経験は初めてで、自分の情報量がケタ外れにアップするのがわかった。
日本的な共同体から自由になるために、やみくもに世界に出なければならない、と単純に考えているわけではない。日本的な共同体は今や日本人によって世界のあちこちにつくられているし、そのすべてが悪いわけではもちろんない。

映画に使用したキューバ音楽は、多くのアメリカ人スタッフを感動させた。キューバの音楽とダンスが、私の映画と小説を支え、アメリカとの関係を客観的なものにした。キューバによって、私はアメリカの持つパワーと根底的な寂しさを両方冷静にとらえることができた。他者とのかかわりの中で私達は自分を知るし、もう一人の新しい他者によって、それまでの関係性が客観的になる。そして、自分の中の最優先事項がわかっていないと、他者には出会えない。「KYOKO」で、私はそれらのことを学んだ。

村上龍(95.12.3 西日本新聞)


基本的なものは、鉄条網の傍を歩いていた幼い頃から何も変わっていない
でも、今、わたしの心の中にずっとあった「鉄条網」が消滅している