小倉陸軍造兵廠
■そのルーツ
かつて、東京小石川にあった陸軍造兵廠東京工廠は、関東大震災によって壊滅的な被害をうけた。その再建候補地として、最終的に、広島と小倉が残った。小倉市は、地元出身の軍長老にも働きかけるなど強い運動を行い、誘致に成功した。誘致の背景には、1925年の軍縮による、第12師団司令部(城内)やその主力部隊(北方)の転出による市勢衰退があった。
■小倉工廠の開設
1927年、陸軍造兵廠の新工廠は、小倉市の紫川左岸、旧城内地区に建設されることで確定。軍は、新工廠に1916年開設されていた小倉兵器製造所を併合し、さらに、1875年以来駐屯していた歩兵第14連隊の兵営と練兵場などを撤去して、計68ヘクタールに及ぶ用地を確保した。現行の住居表示でみると、概ね、城内の大部分、大手町の全部、金田一丁目にあたる地域である。1933年、陸軍造兵廠小倉工廠として正式に開庁。
なお、軍の組織改正で、1940年、小倉陸軍造兵廠と名称を変更。
■小倉陸軍造兵廠の概要
小倉陸軍造兵廠は、廠内に、第1、第2、第3の3製造所をおき、革具、鋳鋼などをはじめ、小銃から機関銃、機関砲、砲弾、そして車両から軽戦車まで製造した。このほかにも、第二次世界大戦末期には、米国本土へ飛行した風船爆弾も手がけた。製造品目からみても、西日本における最大級の総合的兵器製造所であったことが分かる。一方、ここで働く従業員は、軍人・軍属をはじめ、普通工・臨時工を合わせると4万人規模だったとされている。
■大戦と小倉陸軍造兵廠
第二次世界大戦の際は、廠内第2製造所が米軍の空襲をうけ被弾、多数の女子挺身隊員も犠牲となった。また、終戦間際の昭和20年8月に、造兵廠を中心とする小倉市街地は、広島に次ぐ米軍の原子爆弾の投下目標地となった。 同月15日、終戦とともに、同廠は機能停止。その後、工作機械などは、賠償物資として持ち出され、そのあとに米第32歩兵師団(32nd Infantry Division)の一部が駐留。1946年には、交代した米第24歩兵師団(24th Infantry Division)が、同廠旧本館に師団司令部を置いた。同師団は、朝鮮戦争が勃発すると、直ちに最前線に出撃した。
第二次世界大戦が終わっても、この地には暫く平和が訪れなかった。
〈秘〉目標情報票 米軍資料北九州の空襲(奥住義重・工藤洋一)より
出撃に際し機内に持ち込んではならない
1.要約:
小倉造兵廠は、日本の造兵廠の中で最大のものの一つであり、軽自動火器と小型対空砲と対戦車砲の製造に関して、おそらく日本で最も重要である。それは日本製鉄、八幡工場、福岡の渡辺鉄工場、さらにそのほか北九州のいくつかの工場と密接に統合されている。またそれは戦闘用車両も製造している。
2.施設の解説:
目標全体の面積は、南北方向を主軸にして、4140フィート×2040フィートである。この面積はそれぞれが20,000平方フィート以上を覆う36の建物によって、その33%が占められている。頭上を移動する3台のクレーンが、引き込み線を構内の東南隅の貯蔵所と結んでいる。
捕虜による情報は、この工場が北から南に延びる平行な縞になって、三つの別々な部門から成ることを示している。それらは次の通りである。(1)川に最も近くて東側にある弾薬部門;(2)構内の真ん中を通る2列の建物としてのびる火砲の部門;(3)戦闘車両の製造は構内の西側の部分にあると報告された。この地域の北端にあるおよそ22棟の兵舎のような建物は、軍の駐屯地である。
主要な建物のうちで、71%は鉄骨の枠組、29%はコンクリートの枠組である。2次的な建物も、一般的には鉄骨の枠組で、木の枠組の建物がところどころに混じっている。壁は、なまこ板かコンクリートかアスベストであった。屋根の大部分はなまこ板かアスベストで葺いてあり、少数の平らな屋根だけはコンクリートと信じられた。多数の小さな建物は燃えやすい屋根で葺いてある。実際上全ての床はコンクリートである。大半の建物は平屋建てである。
3.重要性:
この工場のように各種の活動をしている造兵廠では、生産の速度は不明である。しかし、おそらくは1か月に、あらゆる種類の機関銃が数千丁は作られるであろう。日本の造兵廠の中でも、最大の二つか三つの一つとして、その重要性は明らかである。この造兵廠では、基本的な鉄や銅の生産は行われない。しかし二次的な金属加工施設は大規模に行われる。必要な電力は北九州の送電網で供給される。
この造兵廠は6.5mmと7.7mmの軽機関銃、7.7mmの重機関銃、20mmの対空砲と対戦車砲、および弾丸を生産している事が判っている。混合毒ガス弾を作り、ガス弾を総填し、これらのガス弾を地下室に貯蔵していることが報告されている。捕虜による情報は、この工場が戦闘用車両を製造していることを示している。この工場の最も重要な工程は、兵器の機械仕上げと組み立てである。鍛造とプレスもまた重要である。
損傷を受けた工作機械は撮り替えが困難であり、何カ月にもわたって生産が出来なくなるであろう。組み立て設備と加工作業に与えた損害は日本が危機的に欠乏していると信じられる特殊な機械を破壊するよりも、長期的にはおそらく問題が少ないかもしれないが、効果は速やかにあるであろう。
XXI爆撃集団 A-2、目標班
1945年6月10日