太平洋戦争(大東亜戦争)中、遠賀郡水巻町の炭鉱(折尾捕虜収容所)では多くの捕虜が労働をしていました。水巻では多くのオランダ人捕虜が収容され53名のオランダ人が亡くなりました。敗戦後、GHQの戦犯調査の直前に日炭高松が慌てて十字架を建てました。
オランダ人元捕虜と水巻町の友情
大戦中、捕虜の一人だったオランダ人のドルフ・ウインクラーさんは戦後40年経っても、当時の事を思い出しうなされていました。今でいうPTSDなのだと思います。精神科のカウンセラーに相談すると、現地に行き、苦しみの元になるものに向かい合うようアドバイスされ、1985年、水巻町を訪ねる事にしました。ウインクラーさんは作家の林えいだい氏に連れられ荒れ果てた十字架に案内されました。町に相談に行くと「十字架」という宗教色のあるものであった為取り合ってもらえませんでした。その後、黒河省二さんの所に相談に来ました。省二さんはお兄さんの博さんに相談しました。「水巻におってから、誰もせんちゃ、おかしいやろ。うちの兄弟でやろうか。」十字架の塔は黒河さん兄弟が管理を行う事になりました。荒れ果てた十字架の塔は補修が必要でした。ある建設会社の方が「自分の兄弟も戦争で亡くなった、供養のつもりでさせてくれ」と申し出てくれ、十字架の塔の修復工事が行われました。墓標には水巻で亡くなった53名と日本全国の収容所で亡くなった871名のオランダ人の名前が刻まれています。
1987年からは毎年献花式が行われるようになりました。ウインクラーさんは何度も水巻町を訪れました。オランダからも多くの方が十字架の塔を訪れました。敵国であった日本に対する強い反日感情を持った方々、元捕虜や遺族の方々、戦時中日本人とオランダ人女性の間に生まれた方々、戦時中インドネシアで強制収容所での生活を余儀なくさせられた方々、オランダ政府関係の方々、多くのオランダ人が水巻町を訪れました。町も十字架の塔やオランダとの交流へ積極的に参加協力するようになりました。
ウインクラーさんは、初めて日本に来た頃は笑顔を見せる事もありませんでした。水巻の方々との交流の中で少しずつ打ち解け笑顔を見せるようになりました。水巻の子供たちとも交流をするようになりました。彼は遺言で遺灰を水巻町の十字架の塔の横に散骨する事を希望しました。2009年、ウインクラーさんと十字架の塔を守り続けた黒河博さんは同じ年に永眠しました。
ウインクラーさんと黒河博さんが育てた友情と十字架の塔は、今もあの戦争で憎しみを抱えるオランダ人の心をいやす懸け橋となり、今では毎年中学生のホームステイ派遣・受け入れが行われ、小学校ではオランダ人訪問団との交流会が行われています。
私は、2011年、水巻町の十字架の塔を知り、2012年現代表の黒河英利さんを訪ね献花式や交流会等に参加させていただきました。小学校で行われる交流会の通訳ボランティアをさせて頂いた際は子供たちのエネルギーに驚かされました。子供たちが英語であいさつをしてきます。小学二年生との給食の時間は質問が止まりません。多くの人が避けようとする捕虜の問題やあの戦争の歴史を子供たちはどこまで知っているのでしょう。しかし、一生懸命彼らをもてなそうとする子供たちの姿は長い間日本を憎しみ続けたオランダの人たちの心の中に新しい時代の息吹を勢いよく吹きかけているようでした。そして、「戦争被害者」と言われる方々は笑顔で水巻を去って行きます。インターネットで検索をすると水巻町にホームステイで訪れたオランダの中学生の動画がありました。子供たちの笑顔を見た時、黒河さんご兄弟、水巻町、水巻の方々がオランダの方々と育んできたものに驚かされました。
水巻町の若者は海外青年協力隊への参加率が全国でも高いと聞きました。
オランダとは今まで全く縁のなかった私ですが、憎しみと苦しみを子供たちの笑顔に変えたウインクラーさんと黒河さんの活動により、水巻町で新しい国際交流を体験させて頂きました。彼らの育んだ友情はオランダと水巻町の子供たちに新しい友情をつなげ、これからも未来へ、オランダ人捕虜たちの歴史と命は水巻で育った子供たちの心の隅に生き続けるのかもしれません。