私の中の「傷ついた日本人」

新しい他者、キューバ」に繋がる、わたしのエッセイです。


私は龍さんが生まれた1952年の17年後、戦争が終わって24年半後の1969年に福岡県北九州市に生まれました。基地はありませんし、第二次世界大戦は遠い昔の話でした。

私が第二次世界大戦の歴史とその時代の音楽に関わるきっかけになったのは中学生の頃に見た映画「グレンミラー物語」でした。私はとてもアメリカとアメリカ音楽に憧れていて、20歳でニューヨークに行きました。そこで、歌の勉強を始めました。1990年代の殆どをニューヨークで暮らしました。

Angels Swingは第二次世界大戦とアメリカ音楽のプロジェクトでした。Angels Swingでアメリカの退役軍人やマッカーサー元帥の元護衛の方とも出会っていきます。フィリピンで捕虜になった方々のコンベンションで歌ったり、POW(Prisoner of War)と言われる、戦争捕虜に関する活動の方たちとも親しくなりいくつかの会合などにも参加させてもらいました。私の故郷の戦争の歴史に関する冊子も作りました。

そういった活動の中で、私は徐々に、私の中にいる「傷ついた日本人」に気づいて行きます。

「私の中の傷ついた日本人」とは、敗戦国として罪の意識を持ち、自国を誇りに思えない「日本人」でした。

2014年、初めてキューバに行き3週間の滞在をしました。その翌年の2015年、2か月滞在しました。そして2016年から2018年の約2年間キューバで暮らしました。

私にとって「キューバ」での暮らしは、太平洋戦争でアメリカに降伏しなかったらどういう暮らしになったか。ひとつの可能性の「example(例)」の暮らしでした。私はその暮らしの中で、降伏したから無くしたものと、降伏したから得られたものを理解していきました。理解する事によって解ける。「解放」されるのです。

キューバは日本と、かなり違いのある国でした。頭の中がひっくり返るくらい、様々な違いに、苛立ったり、腹が立ったり、泣いたり、笑ったり。「違和感」は、「他者(キューバ人)」と「自分(日本人)」の「違い」であり、そこには確実に歴史や風土、習慣、信仰からくる「違い」がありました。違いを認識する事で、日本人としてのアイデンティティが浮かび上がってきます。

 

キューバは物はないですが、時間がありました。友人は時間をかけて食事を作ってくれました。私はキッチンに座っていました。コーヒーを出してくれました。私がスペイン語が下手でも、ゆっくり耳を傾けてくれました。

音楽がありました。音楽は一つの言語でした。キューバ人ミュージシャンの大らかさや優しさは、音やリズムになって私の体に浸透して行きました。私が悲しそうな顔をしていると、私を笑顔にしようとしてくれました。

すごく大変な事や嫌な事もいろいろありました。「キューバ(での暮らし)は簡単じゃないから」とキューバ人の友人たちはとても心配します。「すべてが経験なのよ」と、私は笑顔で言いました。本当にすべてが経験で、経験をすることで、知恵がつき、生きる筋力がつくんです。

 

それは龍さんの言葉で言うと、「情報量が格段に増えた」、「世界が広がった」ということだと思います。

今まで私の周りにいなかった人たち、考え方、生き方、習慣、食事、法律、国の体制、音楽の捉え方、ありとあらゆるそれまでの「既存」のもの「あたりまえ」「想定できる違い」そういったものがことごとく壊され、自分を拡大する、しかなかった。

そうやって、「わたし」は私の中のたくさんのものを壊し、再生しました。