元連合軍捕虜であった元アメリカ海兵隊員のドナルド・ヴァソーさんとの出会いから私は安易に「門司港に連合軍捕虜のメモリアルを作りたい」と思うようになりました。門司の港に着いた捕虜の多くが故郷に帰ることなく、異国の地、日本で死んだ。その歴史を地元の人は知らない・・・。アメリカですら太平洋戦争での日本国内の捕虜の事は長い間表に出なかったと聞き、国の為に命をかけたにもかかわらず、忘れられるって、どんなことだろう。と、私なりに考えました。

実際にメモリアルを作りたいと言っても簡単なものではありませんでした。連合軍捕虜に関する事や北九州の戦争との関わりを調べ始めました。しばらくすると、どうしてオランダが?イギリスが?オーストラリアが日本と戦ったの?沢山の疑問がわき、解らない事はすぐにネットで調べました。私は戦前、戦中の南方アジアの事を何も知りませんでした。

捕虜のメモリアルに関しては北九州ではあまり興味を持ってもらえませんでした。敵国の捕虜の事なのかな、と思っていました。ふと、北九州市内にすでにあるいくつかの戦争に関連するメモリアルの事を調べてみました。八幡大空襲の慰霊碑、メモリアルクロス、門司港の世界平和パゴダ。ビルマ戦線で亡くなられた方々のご遺族がサポートをしていた世界平和パゴダは2011年暮れに閉鎖されていました(2012年8月ミャンマー政府のサポートにより再開)。あの戦争は私たちの世代やもっと若い人たちにとっては関係のないものになってしまっている事に気付きました。パゴダを訪ねるとビルマで戦死した方々を想う方々の気持ちが随所に見る事が出来ました。寄付の為に石に刻まれた名前を見ると、昭和の遠い出来事を眺めているようでした。連合軍捕虜のメモリアルの事よりも、あの戦争で亡くなった日本人たちの事すら、忘れ去られようとしている事に気付きました。

私は長い間、あの戦争を起こした日本は恥ずべき国だと思っていました。日本があの戦争で何をしたのか、どうして戦ったのか、深く知ろうとしませんでした。しかしドナルドさんとの出会いからあの戦争の事を調べざるを得ない事になり、私たちが学んだ歴史以外の出来事をいくつも知ることになりました。

あの戦争の話題になると、色々な考えが対立する事はよくあります。ネットを検索していくうちに様々な出来事や情報、考え、立場や経験がある事を知りました。各国により情報や考えは違い、日本国内ですらあの戦争は正戦であったという意見と、過ちだったという意見がぶつかり合います。

アメリカでは軍や政府の機密文書の多くが年月が経つと公開されます。本の選び方も昔と今とでは全く違い、ある程度その本の内容や信憑性を調べてからネットで買ったり、図書館で借りたり出来るようになりました。アジアには日本と一緒に戦い親日だった方々も居るそうです。今までは、テレビ、新聞、学校教育が大まかな歴史観を与えていたかもしれませんが、時代が変わった今だから知る事が出来る事柄も多くある様に思いました。

祖父母と昭和十年代に生まれた私の両親ではあの戦争や日本に対する考えや想いは違います。私と両親の世代でもまた考えや想いが違います。あの戦争は世代によって受け取り方や感じ方は全く違ってくるように思いました。

あの戦争がなんだったのか、私には語るだけの力量も知識もありません。また、未来には情報の量も、考え方も今とはまた変わっているのだと思います。私はあの戦争の事に関ることにより、多くの出会い、考える機会、学び、感動をもらいました。あの戦争前後には、現代日本への変換の大切なカギがある様に感じました。

とはいえ、私は20年後に、あの戦争の事をどう考えているのでしょう?今の20代の人たちは、あの戦争をどの様にとらえ、知って行くのでしょう?その子供たちは、またいつの日か、あの戦争の事をどう教わり、どう知って行くのでしょう?

みらいには、今とはまた違う考え方や感じ方がある様な気がします。

この場を借りて、この冊子を作るに当たり、お忙しい中ご協力下さいました、元北九州市助役の出口隆さん、元IMAX日本法人元社長の山本昭生さん、POW研究会の笹本妙子さん、作家の一条真也さん、写真家の木寺一路さん、多くの米国資料や文献の掲載を許可くださいました工藤洋三さん、製作費用にご協力いただきました方々に心より感謝いたします。冊子制作中にご縁を持つ事が出来た、24師団のトム・シールさん、歌手のモニカ・ルイスさん、マッカーサー元帥の護衛をされていたデビット・ヴァレイさん、朝鮮戦争のメモリアルが繋いでくれたご縁に心から感謝いたします。そして何よりも、Facebook、mixi、ブログを通して見守り、応援くださっている方々に・・・貴女たちの支えがあるから、「戦争」という難しいテーマに私なりに挑戦する事が出来ました。いつもありがとう。

白石昌子(Seina)