はじめに
『昔は医者になりたかった。カストロ将軍がキューバに医者を!と叫んでいた頃だ。
「ふうん、キューバにか、医者か・・・」と少しゲバラに似た父も満足していた。
しかし高校一年の時、佐世保は戦場になって多感な15歳は狂ってしまった。世界を知るためには革命に参加することだと誰かが言っているが、それ以後はもう時代の混乱に比例してムチャクチャになってしまった。
そしてハッと気付いた時に、静かになった世の中では、鼻持ちならない無傷の奴らが高いところでニヤニヤ笑っていたのだ。
今に見ていろとずっと思ってきたし今でもそれは変わらない。全く気が重くなるやっかいな時代だが、何とかやっていかなければならない。
キューバの医者の夢を破って以来、不必要な親不孝をくり返してきたけど、この賞が、今年銀婚式を迎える父と母へのささやかなプレゼントになればうれしいと思っている。』
「群像」6月号
1976年、24歳の村上龍の名前が初めて世に出た群像新人文学賞を受賞した時のことばです。
これを読んで、「共産主義者か!」と村上龍を単純に分類しないでください。日本の人たちには解らないかもしれませんが、キューバ人にとってフィデル・カストロやチェ・ゲバラの事はとてもセンシティブなテーマ、というより、ある種の主題なのかもしれません。
日本は、1945年の敗戦の後、アメリカの占領統治と共に、新しい価値観、新しい教育、新しい憲法、焼け野原は新しい街になりました。私が生まれた頃にはアメリカが与えてくれた価値観を目指す暮らしでした。
私は1969年に生まれ、アメリカの音楽、アメリカの映画、アメリカの生活スタイルに憧れて育ちました。中学生の時にグレンミラー物語を見て、アメリカの1940年代の音楽に憧れて、20歳の時にアメリカ(ニューヨーク)に住み始め、大好きだったアメリカンスタンダードポップスの勉強を始めました。
数年後、私が音楽でテーマにしたのは「第二次世界大戦」でした。
戦争で戦った敵国、日本で生まれた育った「女の子」が、第二次世界大戦の時代を生きたアメリカ人さえも忘れかけている流行歌を含めたCDを、その時代を生きたアメリカ人ミュージシャン達と作って「あなたたちの歌は今も生きている」というメッセージを添えて。ミレニアムの最後の年にアメリカ全土の要介護老人ホームに贈るというプロジェクトでした。それは、音楽は、哀しみや憎しみを超えて心に届くのではないかという挑戦でもありました。(老人ホームからの手紙)
村上龍さんとはこのプロジェクトがきっかけとなり繋がりました。(村上龍さんからのことば)
私のキューバへの扉は、2013年、ニューヨークのイーストハーレムのレストランで、亡命キューバ人ミュージシャンのダニー・ロホとの出会いでした。私は私がクリエイトしたキューピーダニーをきっかけに、ダニーの家族にも会う事になりました。キューバに住む人たちや、アメリカに住むダニーの友達たちを通して、イデオロギーの違いを垣間見るようになりました。
書きたい事はいろいろとありますが、長くなっては伝えたいポイントすら伝わらなくなります。
アメリカ海軍基地のある街、佐世保で生まれ育った村上龍のキューバ以前のエッセイには、いつも「鉄条網」がありました。それは、戦勝国(米軍基地)と敗戦国(日本)を隔てるものでした。これが「村上龍」の「原風景」と言われています。
ソ連崩壊後の大変厳しかった時代に、日本で成功した作家としてキューバの音楽を育てる事に参加できたのは、少年時代の夢を違う形で叶えたのかもしれません。それは朴訥でぶっきらぼうな天才ミュージシャン、「ホセ・ルイス・コルテス」との出会いがあったからこそ起きた事だと私は思っています。
そして、1995年の作品「KYOKO」で心の中の「鉄条網」が消滅します。
このプロジェクトが「村上龍」をまた別の角度から理解するきっかけになれると本望です。
音楽は頭で考えるのではなく、身体、細胞、心で「感じ」、イデオロギーを超えるというより、「すり抜ける」。
イデオロギーが違ったとしても、互いに純粋に音楽を愛しているのであれば、素敵な音楽が生まれる。そのような音楽は悲しみや憎しみを超えて行く、すり抜けていく。私は、そう強く信じています。
だから、私は音楽を愛さずにはいられません。
白石昌子