Allegroの記事の翻訳
1月24日、88歳のジャズベーシストレナードガスキンがお亡くなりました。
彼は1943年からのローカル802メンバーです。
形式的な死亡記事のかわりに、レナードガスキン氏の最後のトリビュートコンサートとなったこちらのストーリーをお伝えします。
イベントは一年前の2008年3月に行われました。
ホームに戻ってくる事は時としてほろ苦いものです。
去年のある風の吹く日、Seinaで知られる日本人のヴォーカリストが彼女のメンターでありアイドルの偉大なベーシストであるレナードガスキンに音楽を贈る為にNYに戻ってきました。
ガスキンはBrooklyniteでありとても尊敬されているパフォーマーであり、チャーリー・パーカー、マイルス・デイビスからジェームスブラウン、ボブディラン、アレサフランクリンに至るまで全てのミュージシャンとレコーディングを行っています。
彼は、家族の介護協力の後フルタイムの介護が必要になり、クイーンズのベイサイドにあるオザナム・ホールという介護付き老人ホームで幾年かの余生を過ごしました。
そして、ガスキン氏の妻がお亡くなりになりました。
Seinaは偉大なミュージシャンが大切な人を亡くされた事を知りたいして計画も立てずに飛行機に飛び乗りました。
すぐにでもメンターのサイドにという思いだけでした。
第2次世界大戦時代のバラードと得意とするその歌手は1990年代終わりにガスキン氏とグレイディテイトとCDを録音しました。
ガスキン氏とテイト氏はその時彼女を強く勇気づけました。彼らにご恩のお返しをしたいと、長い間思い続けていました。
そのチャンスが来ました。
Seinaはとっさに飛行機に飛び乗りました。
少しのお金とほんの少しの友人の連絡先を持って。
彼女はローカル802のジャズ部にやってきました。
ボブ・クランショウは彼女のアイデアを気に入りました。
「僕はいつもレナードのプレイが大好きだったんだ」
クランショウ氏はAllegroに言いました。
「恩返しはとても大切な事だと僕はいつも感じているんだ。
彼は本当に偉大なベーシストの一人なんだ。
彼はとても沢山の人に本当に沢山の喜びをもたらしたんだよ。
彼の為に一緒にやろうじゃないか」
クランショウ氏はすぐにバーサ・ホープに電話をしました。
バーサは1960年代からニューヨークとボストンで活躍している才能あるピアニストであり、オルガニストでリーダーアルバムも出しており、ディジーガレスピー、フランクフォスター、ナットアダレイ、フィリーフィージョーンズなどと演奏をしてきました。今もJazzberry Jam! というグループのリーダーとして活動をしています。
Seinaの望みが叶おうとしています。
オザナム・ホールは素晴らしい、設備も整ったパファーマンススペースがあり、美しいブルックリンの壁画がありました。(この施設は元々はブルックリンにありました)
コンサートの日、華やかなブルーのブレザーとアスコットタイを身につけたガスキン氏が現れました。
すぐに会場はレジデンツとスタッフで埋められました。
リハーサルはなく、Seinaは彼女の楽譜を持ってきていました。
クランショウ、ホープ、ドラマーのジェローム・ジェニングス(ローカル802のニューメンバー)は準備万端です。
Take the A trainでバンドの演奏が始まり、
Seinaが歌うスタンダードナンバー
“I’LL WALK ALONE”
“SENTIMENTAL JOURNEY”
“WE’LL BE TOGETHER AGAIN”
そして殆ど演奏される事のなくなった”I LEFT MY HEART AT THE STAGE DOOR CANTEEN”、これはガスキン氏のお気に入りの曲でした
ガスキン氏と聴衆はとても温かく応ました。
そしてこの小柄な歌手は聴衆に向かって言いました。
「私がここに居る理由は、レナードが居るからです。レナードは私の天使です。彼は私のハートです」
Great manに対する臆面もない愛と感謝の表現でした。
そして聴衆は明らかに心を動かされました。
バンドはアップテンポのナンバー”CUTE”を演奏し、Seinaはショーの最後を”I’LL BE SEEING YOU” につなぎ、温かい喝采に包まれた。
2日後、Seinaはエアポートへ行き、東京へと帰って行った。
後日その歌手から電話がありました。
「802のミュージシャン達が私の夢を叶えてくれた」
「私はレナードの為に歌えた・・・彼はハッピーだった。私は帰国できる」