ハポネソン誕生までのストーリー

【JAPONÉSON(ハポネソン)】とは
【JAPONÉS(日本の)】に【SON(キューバの伝統的な音楽)】を掛け合わせた言葉
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【JAPONÉSON(ハポネソン)】は、
キューバ人ミュージシャンの優しさと陽気さに
日本のさわやかなキュートさが交じったキューバンサウンドです

2013年、秋、ニューヨークに滞在をしていた私はイーストハーレムのレストランでキューバ人ミュージシャンの演奏に出会いました。たくさんの刺青に、虹色の髭、不思議な風貌なのに、声が甘い。彼はダニー・ロホ(Danny Rojo)といって、【PORNOSON(ポルノソン)】というバンドでキューバ人の間ではちょっと有名なキューバから亡命してきたキューバ人でした。

初めて生で聴いたキューバ人の奏でる音は、その頃辛い事があった私を楽にしてくれました。

日本に帰国後、サルサの踊りを習ってみる事にしました。サルサの扉を開いたのは44歳でした。

その春(2014年)、再びニューヨークに滞在中、日本人のルームメイトが
「ねぇさん、そんなにサルサが好きなら、キューバ行ってみたらどうですか?」

「キューバって行けるの?」

「私行ってきました。カンクンから行ったらいいんですよ。カンクンにカーサ吉田というパッカー宿がありますから、そこのルルさんに連絡したらビザとかも手配してくれますよ。」

2014年5月、キューバの首都ハバナに3週間滞在しました。ハバナに着いた翌日、親しくなったミュージシャン達がそれから2年半の間、私をいつも気遣ってくれました。

2014年12月、私は100円ショップ(Can Do)で見つけたキューピー人形でイメージがわき、冗談で虹色の髭をつけ、刺青を入れ、眉毛を太くし【キューピーダニー】というダニー・ロホ系のキューピー人形を作りました。ダニーに見せるとダニーはそれを気に入り、2015年から私とダニーはその人形を色んな人に配って回りました。

キューピーダニー

キューピーダニー


これがダニー・ロホ

これがダニー・ロホ


私はダニーに【キューピーダニー】が成功したら、様々なプレッシャーやストレスの中で生きる日本の人が楽しめる、そういった事を少しでも忘れられる、そんなキューバ系音楽【JAPONÉSON(ハポネソン)】をやりたいと伝えていました。

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私は手作業で200体近いキューピーダニーを作り、2015年はニューヨークからキューバにかけてキューピーダニーを持って旅をしました。経費は全て私持ち。でも、いつの日か【JAPONÉSON(ハポネソン)】をするために。

LP(ラテンパーカッション)の礎でもあるマーチン・コーヘン氏を始め、ジョヴァンニ・イダルゴ、サミュエル・フォルメル(ロス・バン・バン)、プピー(Pupy Y Los Que Son Son
)、イサック・デルガード(ラテングラミー歌手)、アレキサンダー・アブレウ(ハバナ・デ・プリメーラ)、レナ・ブルケ(ラテングラミー歌手)、カルロス・バレラ、エデシオ・アレハンドロ、ワルド・メンドーサマイケル・ブランコエリエル・ラソ、ミゲロ・ヴァルデス、アデル・ゴンザレスといったラテン音楽では著名なミュージシャン達に手渡しました。【キューピーダニーギャラリー】

その多くは、ダニーの指示に従い、キューバ国内でスペイン語が殆どわからない私があの手この手で電話でアポ取りをし、【突撃】的に行ったものでした。私はポルノソンのダニーロホの、【キューピーダニー】のクリエーターとしてラテンミュージシャンたちの中で知られるようになりました。

しかし、キューバからニューヨークに戻った2015年夏、たくさんの人たちに愛されたキューピーダニーはニューヨークで終わってしまいます。

私は【JAPONÉSON(ハポネソン)】を諦めきれず、ニューヨークに住むキューバ人パーカショニストのユスニエル・サンチェス・バスタマンテに相談し、フェイスブックで【キューピーダニー】が終わった事と、【JAPONÉSON(ハポネソン)】がやりたいという事を書きました。

すぐに連絡があったのは、ニューヨークで活躍するキューバンサルサバンドのGeraldo Continoでした。グラミー受賞ミュージシャンでもあるオリエンテ・ロペス、ドキュメンタリー映画CU-BOPの主演を務めたアクセル・トスカ、等が賛同してくれました。しかし、ニューヨークでの録音となると録音費用などを考えると実現の難しいプロジェクトでした。

【JAPONÉSON(ハポネソン)】は自然消滅しました。



2016年春、私は再びキューバに行きました。
今度は学生ビザを取得しての中期での滞在でした。

音楽に携わる考えは全くなく、キューバをもっと知りたいという気持ちでした。

しかし、キューバでは騙されたり、脅されたり大変でした。
精神的に追い詰められ、夏休みにはひと月ほどの間、パラグアイに逃げました。

キューバに戻り、
私は、もうキューバは懲り懲りで日本に帰る事、もうキューバに戻ってこない事をオビスポ通り界隈の親しいミュージシャン達に伝え、

私たちの思い出が作りたいからレコーディングがしたい

と、泣きながら言いました。

彼らは「ショーコがやりたがっている。ショーコの為に(POR LA CHOCOLATE)」と動き出しました。

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出来ていく音を聞きながら、私が1997年から行っているジャズのプロジェクト【Angels Swing】の音ではないと感じ、ラテン音楽に関わるこのプロジェクトから【JAPONÉSON(ハポネソン)】を使う事にしました。

こうやって、【JAPONÉSON(ハポネソン)】は始まりました。


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